今日はゴルフ。
朝から雨、それも結構な雨。ゴルフ場まで行って見たら、一緒にプレーする予定の人達が、「出るのぉ?」とやめたそう。ということで、今日は雨で中止ということで、ゴルフ場で30分ばかしお茶をして帰ってきました。
おじさんが30分も話をすると、みなさんにわか政治評論家、経済評論家になり、知っているる噂話に尾ひれをつけてしゃべるしゃべる。裏金から隠し子供問題まで、2チャンネルも真っ青状態でした。
井戸端会議はおばさんだけのものじゃないようです。
ゴルフの大切なマナー(大きなことは言えませんが・・)
雨で中止と思ってもゴルフ場まではちゃんと行きましょう。
2007年9月29日土曜日
床屋名人伝
29日土曜日、日帰りで兵庫医科大学での研修会に行ってきました。
8月の上旬から床屋に行っていなかったのでずいぶん伸びてしまいました。しかし、なんやかんやと時間が無く東京で床屋にいけない状況で困っていたので、無い頭を絞ってアリバイ工作のような仕掛けで床屋に行ってきました。朝早くは家の近くの床屋は開いていないので、より朝早くに自宅を出て、兵庫医大の集合時間の1時間半前に到着して、兵庫医大のある武庫川の商店街の床屋に行ってきました。
ヘアサロンひぐちというのですが、名人でしたね。16歳のとき新潟の村上から関西に出てきて40年以上床屋一筋だそうです。最初は、髪に櫛を入れながら一渡り見て考えていたのでしょうか、どれくらいときかれて、「この前は、8月の上旬にきりました。」これで終わり。植木屋も名人ともなると考えているのが長く、切り出したら早いといいますが、樋口さんもいざ苅り出したら、口では世間話をしながらも、はさみはてきぱき速い。それも、素人のように5ミリずつ苅るのではなく、ばっさり2センチくらいいっぺんに切ってもそれがぴたりと決まっています。髭剃りも何十年と使っているような小刀で一発でそっていきました。久しぶりの名人芸です。写真に写っている人は、名人の弟子みたいな人で名人ではありません。
むかし渥美清の主演の映画かドラマで床屋の名人を目指すのがありました。印象に残っているシーンは、ある日お客が入ってくるなり、目の色が変わり、「お客さん、この前どこで髪を切りましたか?博多でしょう?」「そういえば博多で床屋に行きました。」「そうでしょう、この技は博多の治五郎しかできない。治五郎の次に苅るとなりゃ、下手なことはできないぞ」というシーンでした。名人は髪の毛が伸びても前の床屋の腕がわかるのでしょうか?
自分が経験した名人、その一は新潟大学付属病院前のおばさん。髪を切るのはゆっくり丁寧。一番感激したのは髪を洗うとき、頭皮もさることながら一本一本いつくしむように洗ってくれて気持ちよかった。その二は、30年目の下宿の近所のおじさん、天然パーマの髪質だからということで、かみそりだけで髪を切ってくれました。じょりじょりとほんとうに巧かったです。

8月の上旬から床屋に行っていなかったのでずいぶん伸びてしまいました。しかし、なんやかんやと時間が無く東京で床屋にいけない状況で困っていたので、無い頭を絞ってアリバイ工作のような仕掛けで床屋に行ってきました。朝早くは家の近くの床屋は開いていないので、より朝早くに自宅を出て、兵庫医大の集合時間の1時間半前に到着して、兵庫医大のある武庫川の商店街の床屋に行ってきました。
ヘアサロンひぐちというのですが、名人でしたね。16歳のとき新潟の村上から関西に出てきて40年以上床屋一筋だそうです。最初は、髪に櫛を入れながら一渡り見て考えていたのでしょうか、どれくらいときかれて、「この前は、8月の上旬にきりました。」これで終わり。植木屋も名人ともなると考えているのが長く、切り出したら早いといいますが、樋口さんもいざ苅り出したら、口では世間話をしながらも、はさみはてきぱき速い。それも、素人のように5ミリずつ苅るのではなく、ばっさり2センチくらいいっぺんに切ってもそれがぴたりと決まっています。髭剃りも何十年と使っているような小刀で一発でそっていきました。久しぶりの名人芸です。写真に写っている人は、名人の弟子みたいな人で名人ではありません。
むかし渥美清の主演の映画かドラマで床屋の名人を目指すのがありました。印象に残っているシーンは、ある日お客が入ってくるなり、目の色が変わり、「お客さん、この前どこで髪を切りましたか?博多でしょう?」「そういえば博多で床屋に行きました。」「そうでしょう、この技は博多の治五郎しかできない。治五郎の次に苅るとなりゃ、下手なことはできないぞ」というシーンでした。名人は髪の毛が伸びても前の床屋の腕がわかるのでしょうか?
自分が経験した名人、その一は新潟大学付属病院前のおばさん。髪を切るのはゆっくり丁寧。一番感激したのは髪を洗うとき、頭皮もさることながら一本一本いつくしむように洗ってくれて気持ちよかった。その二は、30年目の下宿の近所のおじさん、天然パーマの髪質だからということで、かみそりだけで髪を切ってくれました。じょりじょりとほんとうに巧かったです。

左:武庫川商店街のヘアサロンヒグチ
右:同じ商店街の「エイセイ薬局」 漢方ですというのがいいですね。電話番号も古い時代のものです。
今は局番は4桁です。空飛ぶ象さんが浴衣を着ているのもいいですね。
2007年9月28日金曜日
好きな話
いささか旧聞ですが、下のような記事が朝日新聞に載りました。自分はこういうのに弱くて、目頭が熱くなりました。この記事には続報も多少ありますが、道徳の教科書に載せたいくらいです。
女子サッカー日本代表の横断幕に、ブーイングの中国反省
朝日新聞2007年09月26日08時57分
中国・杭州市でこのほど行われた女子サッカーのワールドカップのドイツ戦で、日本選手が試合後に「ARIGATO 謝謝 CHINA」と書いた横断幕を掲げた行動が、日本にブーイングし続けた中国側に反省の気持ちを呼び起こしている。地元メディアは「中国のブーイングは日本の横断幕に負けた」と観戦マナーを批判している。
17日の試合中、約4万人の観客のほとんどがドイツを応援。試合前の「君が代」斉唱では多くの観客が起立せず、ブーイングも起きた。ドイツが攻めたり、得点したりすると大歓声が起こり、日本は完全にアウェー状態。荒川がけがで交代したときでさえ、日本へのブーイングが響いた。しかし、日本代表が横断幕を掲げると、中国人の一部からも拍手が起きた。 国営新華社通信は20日、「北京五輪でこのような反日感情を持ち込めば、中国人の国際的なイメージを損なう」と論評。反日的な記事が多いとされる全国紙「国際先駆導報」も「日本人は不快な気持ちを乗り越える勇気を見せたが、中国人にはその勇気がなかった」と指摘した。
ネットの掲示板やブログでも議論が沸騰。「日本選手は横断幕を準備しながらブーイングを浴び続け、どんなに悲しかったか。横断幕を見て、中国人として恥ずかしかった」などの意見が掲載された。
スポーツの話ですきなのは棒高跳びの西田、大江の友情のメダルです。下にスポーツ博物館による二人の逸話を引用します。
友情のメダル
西田修平(早稲田大学)と大江季雄(慶應義塾大学)は、お互いに競い合い、日本の棒高跳を世界レベルまで引き上げたよきライバル同士でした。
西田と大江は、オリンピック第11回ベルリン大会(1936年)の陸上競技・棒高跳に出場、5時間にわたる激闘の末、アメリカのメドウスに敗れましたが、二人ともメダル獲得が確定しました。
4m25cmの同記録だった二人は、2位・3位を決めるための決定戦を止めましたが、試技回数の少ない西田が2位、大江が3位とされました。しかし表彰台では、西田は大江を2位の台に立たせています。(年齢順で西田、大江と決めたという説もあります)
帰国後、ベルリンでの激闘の思い出に、二人はお互いの銀メダルと銅メダルを半分に切断してつなぎ合わせました。これが「友情のメダル」です。
その後、大江は、太平洋戦争が始まって間もない1941年12月24日、出征先のフィリピンで27歳の若さで戦死しました。 戦地でもベルリンで使用したスパイクを戦死の瞬間まで肌身離さず持っていたと伝えられています。
西田は戦後、日本陸上競技連盟理事長、日本オリンピック委員会委員などをつとめて陸上競技とスポーツの発展につくし、 1989年にはその功績を記念して国際オリンピック委員会からオリンピック・オーダー銀章が授与されましたが、 1997年4月13日に87歳でなくなりました。
以上ですが、この話は本当に好きな話です。
女子サッカー日本代表の横断幕に、ブーイングの中国反省
朝日新聞2007年09月26日08時57分
中国・杭州市でこのほど行われた女子サッカーのワールドカップのドイツ戦で、日本選手が試合後に「ARIGATO 謝謝 CHINA」と書いた横断幕を掲げた行動が、日本にブーイングし続けた中国側に反省の気持ちを呼び起こしている。地元メディアは「中国のブーイングは日本の横断幕に負けた」と観戦マナーを批判している。
17日の試合中、約4万人の観客のほとんどがドイツを応援。試合前の「君が代」斉唱では多くの観客が起立せず、ブーイングも起きた。ドイツが攻めたり、得点したりすると大歓声が起こり、日本は完全にアウェー状態。荒川がけがで交代したときでさえ、日本へのブーイングが響いた。しかし、日本代表が横断幕を掲げると、中国人の一部からも拍手が起きた。 国営新華社通信は20日、「北京五輪でこのような反日感情を持ち込めば、中国人の国際的なイメージを損なう」と論評。反日的な記事が多いとされる全国紙「国際先駆導報」も「日本人は不快な気持ちを乗り越える勇気を見せたが、中国人にはその勇気がなかった」と指摘した。
ネットの掲示板やブログでも議論が沸騰。「日本選手は横断幕を準備しながらブーイングを浴び続け、どんなに悲しかったか。横断幕を見て、中国人として恥ずかしかった」などの意見が掲載された。
スポーツの話ですきなのは棒高跳びの西田、大江の友情のメダルです。下にスポーツ博物館による二人の逸話を引用します。
友情のメダル
西田修平(早稲田大学)と大江季雄(慶應義塾大学)は、お互いに競い合い、日本の棒高跳を世界レベルまで引き上げたよきライバル同士でした。
西田と大江は、オリンピック第11回ベルリン大会(1936年)の陸上競技・棒高跳に出場、5時間にわたる激闘の末、アメリカのメドウスに敗れましたが、二人ともメダル獲得が確定しました。
4m25cmの同記録だった二人は、2位・3位を決めるための決定戦を止めましたが、試技回数の少ない西田が2位、大江が3位とされました。しかし表彰台では、西田は大江を2位の台に立たせています。(年齢順で西田、大江と決めたという説もあります)
帰国後、ベルリンでの激闘の思い出に、二人はお互いの銀メダルと銅メダルを半分に切断してつなぎ合わせました。これが「友情のメダル」です。
その後、大江は、太平洋戦争が始まって間もない1941年12月24日、出征先のフィリピンで27歳の若さで戦死しました。 戦地でもベルリンで使用したスパイクを戦死の瞬間まで肌身離さず持っていたと伝えられています。
西田は戦後、日本陸上競技連盟理事長、日本オリンピック委員会委員などをつとめて陸上競技とスポーツの発展につくし、 1989年にはその功績を記念して国際オリンピック委員会からオリンピック・オーダー銀章が授与されましたが、 1997年4月13日に87歳でなくなりました。
以上ですが、この話は本当に好きな話です。
2007年9月27日木曜日
萩と長門
山口県の萩市の山間部にある診療所に取材に行ってきました。
吉部郡むつみ村が合併で萩市に編入されたところで中国山地の真ん中にある人口2000人、ほぼ半数が65歳以上の老人という村です。診療所の名前はむつみ診療所(写真)といい、医師1名、その他スタッフ3名、一日の患者40人程度の規模です。皆さん全員が無茶苦茶明るくて、僻地の診療所とは思えないところが特徴でした。
取材のあと、萩と長門をちょろっと見て帰ってきました。

吉部郡むつみ村が合併で萩市に編入されたところで中国山地の真ん中にある人口2000人、ほぼ半数が65歳以上の老人という村です。診療所の名前はむつみ診療所(写真)といい、医師1名、その他スタッフ3名、一日の患者40人程度の規模です。皆さん全員が無茶苦茶明るくて、僻地の診療所とは思えないところが特徴でした。
取材のあと、萩と長門をちょろっと見て帰ってきました。

むつみ診療所。旧むつみ村役場に隣接している。手書きの看板がいいですね。
右:長門の海、遠くの山が白くて近くになるにつれて青くなる水墨画のような景色でした。
中:どこも彼岸花が満開でした。
右:長門峡の道の駅の朝市。
左:むつみ村のお寺の彼岸花
中:お寺の名物「千体地蔵」の様子。
右:千体地蔵堂の概観。人間が一人入れるような大きな桶を改造して千体の地蔵を収めている。
左:むつみ村の八千代酒造の玄関。杉玉と、酒米を焚くお釜。
中:むつみ村のコスモス畑、一面のコスモスはすばらしいです。
右:萩市の料亭「あじろ」の名物「一味良御膳」、うにの卵とじ丼。小泉純一郎の命名だそうです。
左:高杉晋作の生家。2度目の訪問なのに今度もしまっていた。平日休みはきついです。
中:横にしてみてください。晋作の家の前の道。菊屋横丁というそうな。
右:長門(ながと)の仙崎の金子みすずの生家。本屋さんだったそうな。
左:金子みすずの部屋。ちょうど西日が差して芸術的な写真になりました。
中:代表的な詩。鰮はいわしとよみます。
金子みすずは28歳で離婚し、そして自殺しているのですね。
2007年9月26日水曜日
嗚呼玉杯に花うけて
友人と酒を飲んでいて、珍しく一高の寮歌を知っていて結構話が盛り上がりました。自分の出た高校では、寮歌大会を催していて、寮歌を覚えてクラス対抗で歌ったので、自分は結構な数の寮歌を覚えています。寮歌を聴くと、高校時代を思い出し、遠くを見る目になっていしまいます。
人気があったのは、東京大学に相当する第一高等学校の「ああ玉杯に」と、地元金沢の第四高等学校の「北の都に」と「南下軍」です。ほかの高校のも大体覚えています。何れも当時の文才のあった学生が作ったもので漢文調で元気が出ます。最近の応援歌よりもはるかに格調が高いと思いますね。著作権の関係もありそうなので一番だけ引用します。
嗚呼(ああ)玉杯に花うけて
緑酒(りょくしゅ)に月の影宿(やど)し
治安の夢に耽(ふけ)りたる
栄華(えいが)の巷(ちまた)低く見て
向ケ岡(むこうがおか)にそそり立つ
五寮の健児(けんじ)意気高し
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/aagyokuhai.html
これに比べて、四高のほうはほとんど誰も知りません。まったく趣向の異なった2曲ですが、何れも味があります。
北の都に秋たけて
吾等二十(はたち)の夢数(かぞ)う
男女(おとこおみな)の棲(す)む国に
二八(にはち)に帰るすべもなし
その術(すべ)なきを謎ならで
盃捨てて歎かんや
酔える心の吾(われ)若し
吾永久(とこしえ)に緑なる
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kitanomiyakoni.html
最後は南下軍。四高が三高(京都)ならびに六高(岡山)との定期戦に出かける際に、南下するのでこの名前があります。とくに柔道部はこの定期戦に気合が入っていたようで、井上靖や読売新聞の創始者の正力松太郎などの活躍が伝わっています。 この間の詳しい事情は下のHPにあります。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/nankagunzatu.html
南下軍
ただに血を盛る瓶(かめ)ならば
五尺(ごせき)の男児要なきも
高打つ心臓(むね)の陣太鼓(じんだいこ)
霊(たま)の響(ひびき)を伝えつつ
不滅の真理戦闘に
進めと鳴るを如何にせん
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tadani.html
引用したHPのメロディーはどうも自分が習ったのとは多少違いがあるようですが、これは寮歌の常、各々が自分のが正調と思っています。
人気があったのは、東京大学に相当する第一高等学校の「ああ玉杯に」と、地元金沢の第四高等学校の「北の都に」と「南下軍」です。ほかの高校のも大体覚えています。何れも当時の文才のあった学生が作ったもので漢文調で元気が出ます。最近の応援歌よりもはるかに格調が高いと思いますね。著作権の関係もありそうなので一番だけ引用します。
嗚呼(ああ)玉杯に花うけて
緑酒(りょくしゅ)に月の影宿(やど)し
治安の夢に耽(ふけ)りたる
栄華(えいが)の巷(ちまた)低く見て
向ケ岡(むこうがおか)にそそり立つ
五寮の健児(けんじ)意気高し
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/aagyokuhai.html
これに比べて、四高のほうはほとんど誰も知りません。まったく趣向の異なった2曲ですが、何れも味があります。
北の都に秋たけて
吾等二十(はたち)の夢数(かぞ)う
男女(おとこおみな)の棲(す)む国に
二八(にはち)に帰るすべもなし
その術(すべ)なきを謎ならで
盃捨てて歎かんや
酔える心の吾(われ)若し
吾永久(とこしえ)に緑なる
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kitanomiyakoni.html
最後は南下軍。四高が三高(京都)ならびに六高(岡山)との定期戦に出かける際に、南下するのでこの名前があります。とくに柔道部はこの定期戦に気合が入っていたようで、井上靖や読売新聞の創始者の正力松太郎などの活躍が伝わっています。 この間の詳しい事情は下のHPにあります。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/nankagunzatu.html
南下軍
ただに血を盛る瓶(かめ)ならば
五尺(ごせき)の男児要なきも
高打つ心臓(むね)の陣太鼓(じんだいこ)
霊(たま)の響(ひびき)を伝えつつ
不滅の真理戦闘に
進めと鳴るを如何にせん
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tadani.html
引用したHPのメロディーはどうも自分が習ったのとは多少違いがあるようですが、これは寮歌の常、各々が自分のが正調と思っています。
2007年9月24日月曜日
インドネシア総括
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